太釈さんの法話なブログ

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高野山の布教師 太釈さんがミニ法話を綴ります

平惣書店イベント 特別色紙  
サイン会が終わり、最後に待っていた方から一枚の色紙を差し出されました。

いつも太釈さんの言葉を胸に生きています。
色紙に言葉をいただけませんか?

こんなことを言われたのは初めてだったので、緊張しましたが揮毫させてもらいました。
「心を込める」

私がこの言葉を選んだのは、理由があります。

私が10歳で得度・出家をしてお坊さんになりました。
見習い小僧で、父親である住職の後ろについてお盆のお参りをしました。中学生になれば、寺の近所は私ひとりでお参りしました。檀家さんにとって、私に渡していたのはお寺に対するお布施ではなくお小遣いという感覚だったでしょう。
それでも檀家さんにとっては、私の存在がうれしかったのだと思います。

高校生や大学生になると、お葬式で人手が足りないという理由で私が呼び出されることもありました。私は、まだ高野山での修行を終えているわけでもなく、なんちゃって坊主丸出しでした。

私がお経を唱えたところで亡くなった人がよみがえるわけでもなく、遺族の心情が癒やされるわけでもない。私が来るのはなんと場違いなことかと思っていました。
「門前の小僧 習わぬ経を唱える」といいますが、私も寺で生まれ育ったのでお経をそれらしく唱えることはできました。しかし、私の唱えるお経は空々しいものでした。

私が20歳の時に高野山で修行をしましたが、親の期待とは裏腹に私は心は折れてしまいました。「二度と高野山へ足を向けることはない」と固く心に誓いました。

それから13年の歳月を経てやっと本物のお坊さんになることができました。
私よりひと回り以上年下のお坊さんには、「あなたは、他のお坊さんと決定的に何かが違う。その違いは何ですか?」と聞かれたことがあります。

私は答えに詰まりましたが、「心を込めることかな?」と言いました。
「同じお経を唱えても、お布施の金額は変わらない。でも、お坊さんの目的は故人や遺族に安心を与えることだ。それならば、お経に心を込めなくてはいけないと思う」と答えました。

このことがきっかけで、著書のサインや色紙には「心を込める」と書いています。
私に対する自戒も含めて。


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