太釈さんの法話なブログ 戦没者慰霊祭2013 恕すこと その6

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高野山の布教師 太釈さんがミニ法話を綴ります

戦没者慰霊祭2013 恕すこと その6

著者は志願兵として中国(当時の満州)へ渡りました。
ただ、時期は昭和十九年十二月でした。終戦は昭和二十年八月十五日なので、わずか9ヶ月前のことです。

すでに日本本土は各地で空襲があり、一面焼け野原となっていました。当時の満州ではソ連軍の侵攻があり、日本軍は一般市民を守ることもできず撤退を重ねていました。終戦の知らせを聞き、身を隠しながら日本へ帰る方法を探していた時、日本兵として見つかってしまい、シベリアへと送られてしまいました。


シベリアは極寒の地でした。松林を切り開いたところにある捕虜収容所は高圧電流の流れる三重の有刺鉄線が張り巡らされていました。朝方には室内でもマイナス20度を超える寒さです。私が体験した寒さは高野山でのマイナス10度でした。それ以上の寒さの中、収容所から作業所へと連れて行かれました。夕方に再び収容所へ戻るのですか、戦友の肩を借りなければ歩くこともできない人もたくさんいました。中には、帰り着いた収容所で凍死している人もいました。
日が昇り始めると気温が上がると思いがちですが、シベリアではそうではありません。日中はさらに気温が下がり、午前八時ごろに太陽が昇るとマイナス40℃~50℃になります。一面、ダイヤモンドダスト現象とよばれる真っ白な霜が降ります。

 これだけの極寒で凍傷になります。体の外に出ている部分、つまり手・鼻・足が凍傷になりやすいのです。手や鼻をひっきりなしにこすり、足踏みをして凍傷にならないように予防しました。さらに、下痢にも悩まされました。栄養状態は悪く、水も合わなかったのでしょう。下痢が始まると止まりません。体中の水分が出てしまうと2日目ぐらいにはに血便になります。血液も水分を含むからです。下痢が四~五日続くと亡くなっていきました。著者も下痢になやまされ、死を覚悟しました。友人の介抱で奇跡的に一命を取り留めたのです。

次々と出る凍死者は山へ埋葬されしました。遺体を埋めるために土を掘るのですが、土が凍っていて石よりも硬いのです。枯れ草を燃やして表面を溶かしながらシャベルでやっと50㎝ほど掘り、埋葬しました。

このような生活が3年続いた後、著者は日本へ帰ることができました。
しかし、その道中にトラブルが続くのです。


つづく
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